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 vol.1
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「あの頃」

「TANIOKA・・・TOKIO・・・」・・・変換キー。
「たにおか・・・谷岡。ときお・・・時雄・・・時夫・・・登喜男」
「谷岡登喜男」で、ヒットは一件だった。
その内容を確認するまでもなく「ビンゴ!!」と思わず私は叫んだ。
登喜男なら、たとえば大学の研究論文であったり、あるいは何か著書を持っていたり、あるいは政府の国際会議のメンバーであったりでなんらかの形で検索に引っかかる・・・つまりそんな類の仕事が彼にはお似合いだということ。

谷岡登喜男は私の唯一愛した男だった。
あの頃の私は荒れていた。
とはいっても、20代半ばの一人暮らしの女の生活としてはいたって普通に見られていたはずだ。
もう25年も昔のことだったが、今でもあの頃の何もかもを思い出すことができる。
今はもうないだろう、高田の馬場の六畳一間のアパートで私たちは多くの時間を共に過ごした。
登喜男は私より三歳上で、当時2度目の学生をしていた。
一旦社会に出たのち大学院に入り直したのだった。
私たちは、今だ学生運動の匂いを残すような、日当たりの悪い六畳の畳にじゅうたんを敷いて、そこに、二人で選んだ安物のソファーを置いた。
予算に見合ったソファーは、趣味の悪い幾何学模様の布張りで、座り心地もお世辞にも良いとはいえなかったが、登喜男と二人でそれに座るとき、私はいつも甘い夢を見ていられた。
私が長いストレートヘアを乾かす時、いつも登喜男はその細い指で髪を梳かしてくれる。
優しさからではない。
ただ、そうしてあげている自分自身を愛しんでいるように私には思えたが、それでも私は十分に幸せだった。
登喜男の居る場所でだけ、私はまともに呼吸ができた。
私は短大を出て、デパートに勤めた。
デパート勤めそのものは、たいした労働ではなかったが、そこでは女の目に見えぬ嫉妬や憎悪や悲哀や羨望や、そんな様々な感情が飛び交い入り混じり、少しでも油断しようものなら、あっという間に足をすくわれてしまう・・・そんな恐ろしさが渦巻いていた。
「魑魅魍魎!?」私が職場の同僚たちを指して言った言葉に登喜男は笑い転げたっけ。
安物のソファーが登喜男の笑い声に連動して弾むように揺れた。
肩に回された彼の腕の中で、私も揺れた。
私の、身も心も揺れていた。

毎日私は、そのデパートの魑魅魍魎の巣から、逃出すように部屋に戻る。
ドアを開けると、勉強をしている登喜男の痩せた背中が真正面に見える。
いつも帰りは登喜男が先だった。
それから、私たちの長い夜が始まった。
コンビニがやっと普及し始めた時代だが、私たちの住む町は学生街でそこかしこに安い料金で食べさせてくれる食堂があったから、どちらもほとんど炊事はしなかった。
一日いくらまでという、二人で決めた金額内で夕食を終えると、私たちは、ほぼ一日おきに酒屋へと向かった。
買うのは、決まって同じ。「NEWS」という名の当時流行っていた国産ウイスキーである。
バーボンに似せたスモ−キーな香りが売りのそれを、ロックでちびりちびりやりながら、私たちは、深夜まであれこれと議論を戦わすのだった。
社会のこと、マスコミの報道のあり方、人とは何か?そして人はどう生きるべきか?・・・話題は様々だったが結局のところ行きつく場所は大抵いつも同じだった。
それは、主に「私のコト」。
つまり、それぞれが話す全ての素は、ただただ「自分が好き」というところから派生してさらに、「私ならこうする」と言う場所に必ず着地した。
だから、私たちの議論は当然のごとく、とても後味の悪いものであったし時には、口汚く相手を罵り合うこともあった。
そして、ついには私が、自らの手首を切りつけるということに発展したこともあった。
それでも私に、死ぬ気など毛頭ないことを登喜男は見抜いているのだ。
その証拠にまた翌日から、私たちの不毛な議論は繰り返された。

今なら良く分かる。私がいかに社会という現実から逃避したかったのか。
私は、世の中を泳ぎきれず溺れそうな魚。そして登喜男もまた、社会に出られないであがくだけの、ピーターパンであったのだ。
登喜男と、こんな毎日を1年以上続けただろうか?
二人の関係は、私がストレスと毎晩の飲酒で身体を壊し、故郷に帰ることであっけなく終わった。
すがることも、求めることも、追う事も、さらには「愛している」いう甘い言葉さえ私たちの間では無言の禁句であったあの頃に、大切な忘れ物をしてきたという思いがずっと私の中から消えなかった。
でも別れの手紙を投函したその日、アドレス帳の彼の実家の住所と電話番号を消したのは私の方。
登喜男からはしばらくの間ただの印刷の年賀状が来ていたが一度も返事は出さなかった。
そして、それが最後となる彼からのはがきが私に届いた直後、私は親の薦める人と見合い結婚をした。
極々平凡な生真面目な「好青年」との退屈な暮らしが始まった。

パソコン検索でヒットした「谷岡登喜男」は、翻訳家であった。
ドイツに住んで大学の客員教授をしながら、翻訳の仕事をしている谷岡登喜男は、そのホームページの中で、日本の出版社に向けて自らを売り込む旨のメッセージを寄せていた。
私からのメールの第一報はこんな文章から始まる。
「あなたはあの“谷岡登喜男”さんですか?
25年前、高田の馬場のアパートで3歳年下のデパガと暮らしたことのある、登喜男ですか?」続けて私は、その頃のことを克明かつ具体的に書き記したのだった。
あの頃に置き忘れてきたものの正体をすでに私は知っている。
ただ、それは登喜男も同じであるという確信はなかった。

毎朝、6時に起き、主人と娘の弁当を作り、7時半に主人を、そして7時45分に娘を送り出した後、登喜男からの返信を心密か期待しながらパソコンのメール画面を立ち上げる。
今日も登喜男からの返信は無い。
初めてメールした日に一番花を着けた、家庭菜園の茄子が最後の末生りとなった。
それでもまだメールはなかった。
日常に果てしなく埋没していくような主婦の焦りにも似た毎日をわからぬ「谷岡登喜男」に苛立ちを覚えながらも、私はつぶやく。
「無粋な男ね。主婦のロマンがわからないなんて」
ドイツに居る谷岡登喜男とのメールで、「あの頃」の自分に戻れたら・・・。
ただただ当たり前に時刻だけを刻んで行くだけの、心ときめかす出会いもない日々の中で、私は今でもあの頃の夢を見る。
「あなたを愛してた」
それだけを言い残して私は、生活という濁った水に身を委ねている
そして、登喜男は・・・?
登喜男もきっと言い残していたに違いないのだ。

あの日、登喜男から最後に届いたはがきは、登喜男の家族からの喪中ハガキ。
それは、登喜男の事故によるあまりに早すぎる死の知らせだった。

「君を愛してた」「・・・あの頃」。
どこかでそんな、登喜男の声がした・・・気がした。